名古屋高等裁判所 昭和36年(う)735号 判決 1962年7月03日
主文
原判決を破棄する。
被告人は懲役二年に処する。
但し本判決確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。
理由
本件控訴の趣意及び答弁は名古屋地方検察庁検事田辺緑朗名義の控訴趣意書及び弁護人白木伸名義の答弁書に夫々記載されているとおりであるからここにこれを引用するが、これに対し当裁判所はつぎのように判断する。
職権をもつて案ずるに、原判決は本件において被告人には未必的な殺意があつたものとして福井重市に対する殺人の事実を認定しているけれども、被告人が果して未必的にせよ、殺意を有していたものと認むべきか否かをまず検討してみよう。
本件において被告人が兇行前夜、日頃酒癖のすこぶる悪い被害者福井重市から何等の理由もなくして手拳や、鋸の目立板で被告人の頭部、腕部、背部等を散々に殴られ、その上兇行当日も、被告人が前夜の負傷のため仕事に出れず、飯場で休養しているところへ、また福井が酩酊して戻つてきて、被告人に「昨日は何処へいつたか」(被告人が警察へ届けにいつたことを指すものか)などと難癖をつけ、自己の臂力をたのんで親方の制止もきかず、灰皿や下駄で被告人の頭部を殴りつけるというような暴行にでたのであつたが、それでも被告人はひたすら隠忍自重し、少しも抵抗するところがなかつた。しかるに福井はなおも被告人に対し「殺してやる」と叫びながら薪割用斧をもち出し、うつ伏しになつて身を守つている被告人の首を斧の柄で押えつけたので、被告人も斧で殴られては大変だとおもい、柄の部分をつかんで福井ともみあつているところへ、親方から急を聞いて駈けつけた同僚木原正夫(日頃福井ととくに親しくしていた)が福井をとめようとすると、福井はこんどは木原にとびかかつていき、忽ち病身の木原をその場に押し倒し同人の頭髪をつかんで押えつけるにいたつたが、その隙にようやく福井の手を逃れた被告人が憤怒と恐怖の念から、偶々福井が手離し被告人の手に残されていた右斧で福井の背後から後頭部を二回峯打し、同人を左後頭部割創に因る失血のため死に致したものであることは記録上明である。すると、このような本件兇器の種類や、被害者の創傷の部位、程度からみて、被告人に少くとも未必的な殺意があつたことは容易に推認しうべきもののようにおもわれないでもない。しかしながら、被告人は原審公判においてただ夢中で福井を背後から斧で殴つてしまつたのであつて、同人を殺そうとか、同人が死ぬかもしれないというようなことは全然念頭に浮ばなかつた旨弁解しており、この点に関する被告人の供述は警察における当初の取調以来終始一貫してかわるところがないのみならず、被告人は兇行前夜の福井の暴行で負傷し右腕の自由を失つていたため、右利きであるのに斧を左手にして殴打したものなること、しかも被告人はその殴打直後、福井のため斧を奪回され暴行をうけることをおそれて、すぐこれを犯行現場から窓外へ投げすてていることなどの諸点に鑑みるときは、被告人の平素の性行からみてその弁解は十分に信を措くに足る。そうだとすると、被告人は福井との争闘の瞬間において恐怖心と憤怒の念に駆られ、心の平静を失い、その行為の結果について顧慮するいとまもなく、福井の暴行に対し思わず反撃にいで、同人を傷害し死に致したものなることが窺われるので、殺人の未必的犯意を認めた原認定は事実を誤認し、ひいては法律の適用を誤つたものというべく、それが判決に影響を及ぼすことは明であるから、検察官の控訴趣意については、判断を用いるまでもなく原判決は破棄を免れないので、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八二条に則りこれを破棄するが、本件は原審及び当裁判所が取調べた証拠により直ちに判決するに適するものと認め、同法第四〇〇条但書により当裁判所においてさらに判決する。
(罪となるべき事実)
被告人は名古屋市南区元塩町一丁目三七番地水野建設株式会社森脇飯場に大工として住込んでいたものであるが、昭和三六年六月一七日午後一〇時三〇分頃被告人と同室の同僚福井重市(昭和一五年一月二七日生)が酔余、居室の窓ガラスを手でたたき割り、手に怪我したので、同僚の上野一雄が「危いことをするな」とかるく注意すると、福井は「切つたのが悪いか」などと因縁をつけて上野の顔面を殴つたり、頭髪をひつぱつたりするような暴行を加え、上野がようやくその場を逃れ去ると、こんどは、いきなり何の理由もないのに、そばに寝ていた被告人の頭髪をつかんで頭部を手拳で殴打し、さらにその場にあつた鋸の目立板で抵抗もしていない被告人の頭部、腕部、背部などを殴打したため、被告人は右肩胛部上膊部に加療約一週間を要する打撲擦過傷を負い、同夜ただちに医師の手当をうけるとともに、巡査派出所に被害の届出にでかけたが、巡査不在のため、飯場に戻りその夜は別室で就寝した。ところが翌一八日被告人が前夜の負傷のため仕事にでれず居室で休養していると、午後七時三〇分頃、またもや福井が飲酒酩酊して帰つてきて、被告人に対し「昨日はどこへ行つた」などと言つて、被告人の頭部を手拳で殴り、臂力の勝ぐれていることをかさにきて、飯場の親方森脇忠雄らの制止もきかず、かたわらの灰皿で被告人の頭部を殴り、灰皿が割れると、下駄をもつて「お前のような奴は殺してやる」などといいながら、被告人の頭部背部を殴打し、この間被告人は何ら抵抗せず、うつ伏せになつて必死に福井の狂気のような暴行から身をまもつていたのであつた。しかるに福井はこのような被告人の隠忍自重にますます図にのつてその近くにあつた薪割用斧をもちだし、その柄でうつ伏している被告人の首のあたりをおさえつけたので、被告人は福井にこのうえ斧を振りまわされてはそれこそ本当に殺されるかもしれないとおもい、斧の柄をにぎつて福井ともみあつていた。そこへ急を聞いて同僚木原正夫が駈けつけ被告人を助けようとして、被告人と福井の間に体をいれて両名を引離そうとすると、福井は斧から手を離してこんどは木原に立ちむかい、病身の木原を忽ちその場に押し倒し木原の頭髪をつかんでおさえつけた。被告人はその隙にようやく福井の手を逃れたものの、恐怖心と憤怒の念に駆られ、偶々福井の手を離れ、被告人の手にのこされていた斧を左手にもち、(右利きであるが、前夜の負傷で右腕の自由を失つていたため)福井の背後からその頭部を二回峯打し、よつて同日午後八時一〇分ごろ左後頭部割創による左後頭動脈、左後耳介動脈切断に基く失血のため福井を死亡するに至らしめ、もつて過剰防衛をなしたものである。
(証拠の標目)≪省略≫
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法第二〇五条第一項に該当するので、その所定刑期範囲内において被告人を懲役二年に処し、被告人の本刑犯行の動機については真に憫諒すべきものがあり、被害者にこそむしろ責むべき点が多く、本件は過剰防衛と認められること、ことに被告人は日ごろ大工職に精励している温厚にして淳朴な青年であるのみならず、本件による一年有余にわたるながい身柄拘束のうちにすでに十分な反省をとげ、再犯の虞はないものと認められること、その他諸般の情状に鑑みるときは、被告人に対してはその刑の執行を猶予するを相当と認め、同法第二五条第一項により本判決確定の日から三年間右刑の執行を猶予すべく、なお、原審及び当審における訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項但書により被告人にこれを負担せしめないこととし主文のとおり判決する。
(裁判長判事 小林登一 判事 成田薫 斎藤寿)